セドナメソッドの本を購入した。

先週セドナメソッドの本を購入して読み進めている。

 

セドナメソッドの基本は5ステップのワークになっている。

 

1: 今何を感じていますか?
2: この感情を認めることはできますか?
3: この感情を手放せますか?
4: この感情を手放しますか?
5: いつ?

 

それぞれのステップで自分なりに

 

1: 今何を感じていますか?
今感じていることや、悩み、逆にポジティブなできごとなどもふくめて何か気になっていることを取り上げる。意外だったのが、一見して良いことでもワークで取り上げるということだった。良いことでも、感情を解放することで、より良い形に変化していくのだそうだ。
 
ステップ2〜4は、端的にはい、いいえで答える。頭で考えるよりは、直感的に浮かんできた通りに答える。
 
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2: この感情を認めることはできますか?
自分に良い感情であれ嫌な感情であれ、自覚するのがこの段階。自分は、これにあまり抵抗はないけど、人によっては抵抗が出てくるような気もする。
 
3: この感情を手放せますか?
自分はここで強い抵抗が出ることが多い。問答無用で「いいえ」と即答することが多い。何度かやると、抵抗感は多少弱まるうような気がする。
 
4: この感情を手放しますか?
自分は手放したいという欲求が強いのかこの質問では即答で「はい」と回答することが多い。
 
5: いつ?

これも自分は特に葛藤が出てこず、即答で「今」と回答することが多い。

 

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個人的には質問の内容をアレンジして、感情と表現しているところを、感情と思考、という風にしても良いような気がする。そのあたりの微調整は試行錯誤しても良いかなと思う。

 

書籍の方ではさまざまな状況でセドナメソッドを活用するためのガイドが丁寧に書かれているので、ネットで情報をチェックするだけではなく実際に書籍を手に取って確認してみると良さそう。

 

AI絵師とアート

ここ最近で一躍有名になった生成系AI。AIにプロンプトを与えることでさまざまな手テイストのイラストや写実的な絵を生成でき、多くの人に衝撃を与えたと思う。
そんな昨今、AIを使ってイラストを生成するAI絵師と言われる人が登場した。

彼らの投稿するイラストはなるほど確かに美麗なものが多いけれど、AIでプロンプトを与えて自動的に、自分好みで指定したコンセプトに基づいたイラストを生成することは、言語化の訓練にはなるかもしれないが、自分自身のスタイルや型は身につかないだろうなと思う。そして、イラストを自分の手で描いていない時点で、絵を描く能力そのものは一歳向上しないのは間違いない。

プロンプトはアートではない。適切なプロンプトを考えるにはテクニックやスキルが必要ではあるし、アーティスティックな感性が必要とされるところはあると思う。しかし、プロンプトはアートではない。プロンプトとは要件を伝えることであって、外注のイラストレーターに要件を伝えるようなものだと考える。

まとまりがないけど、一番思うこと。コアな部分は、AIに任せずに、自分の手で線を引いたり彩色した方が楽しいんじゃないの?

感情を感じるちから

喜怒哀楽のうち、怒と哀はめちゃくちゃ身に迫って感じるし、何よりもそのエネルギーに、自分自身が圧倒される事がある。それに比べると、喜と楽というのは弱々しく、薄く、感じとるのが難しく感じる。

今になってやっとその事に気付いたところ。ネガティブな感情や不快感を感じるのは得意なのに、嬉しい気持ち、ワクワクした気持ちというのは、ぼんやりとしているから、何が自分にとって嬉しい事なのか、あまり実感がない。どれもこれも大した事がないことのように感じてしまうことがある。

喜怒哀楽、それぞれの感情に対する感受性?というのは、ちゃんと向き合って、育てていかないと感覚が発達していかないのかもしれない。今まで、ポジティブな方向の感情はあまり意識していなかったので、今のところどうしたら良いのかよくわかない。

思った通りの事が起こる。

思った通りの事が起こる。という事を今日実感した。

最初自分がやらかした事には気づかなかったのだけど、色々調べてみるとどうも自分が行った操作によってトラブルが発生していたという状況証拠が上がってきた。
通常は起きないような事なのだけど、自分の操作によってパソコンのソフトのバグを引き当ててしまってトラブルが発生していた。

その事に気づいて動揺したが、それと同時に「これは、まさにクリエイティブアヴォイダンスというやつか!」と関心してしまった。無意識では、円滑に進むと却って自分が大変になるから、と正反対の行動をとっていたのだろう。普通のケアレスミスとは一線を画す思いがけない方法を見つけ出して無意識に実行していた。

失敗した事で落ち込んでしまったが、視点を変えてみれば、自分にとってどうしても達成したい事がある時、この現象を自分の望む方向で引き起こす事ができれば、大きな成果につながる事に気付いた。

明日その件で残作業があると思うので、それについては自分なりにできる最善をつくして対処していこうと思う。この事で過度にネガティブな気持ちに浸らず、落ち着いて取り組んでいこう。なんとかなるかもしれないし、大変な事になるかもしれないけど、そんな事は実際にその事態に直面した時に大いに悩もう。未来の事を心配しても仕方がない。

自分はこれまでネガティブで、失敗してしまうと引きずる性格だったけれど、これからはそんな出来事にもへこたれず前向きに生きていく事にする。ポジティブ・ネガティブどちらの考えを持っても人生が変わらないというなら、なおさらポジティブで楽天的に生きた方が楽だと思う。そして、思う事が明るくなり視野が広げられていれば、今回のようなクリエイティブさは、良い事を達成するために発揮されると思う。

働きたくないと改めて思った(笑)

自分自身の本音の本音は、キャリアやビジョンなどというものは全くなく、
今目の前の仕事に取り組むくらいの考えしかないのだった。
しかし、それを素直に話すのは不味いという想いがあり、
労働者としての人格でそれ相応の事を話そうとしていたように思う。
 
そもそも、働きたくない。
 
根底にその想いが根強くある。土台がそれならばどれだけ重ねても安定しないものだと思う。
安定しない地盤にどうにか堅牢な建物を建てようとしても土台無理な話。
大人として、社会人として、男として(人によっては女性として?)、長男として・・・
そんな事を言い聞かせて自分の想いをねじ伏せようとしても難しい。
 
もうギブアップする!
 
社会的に最低限の立場を維持して、それなりの格好がつけたかったけども、
自分にゃ無理だったのだ。能力的なものというより、根本的に興味が持てないし、
そこにつぎ込むエネルギーもない。それって、作ろう生み出そうとして
湧いてくるものではないと思う。火がなければ、燃料があったところで燃えないと思う。
 
さて、そんな自分自身の想いを否定するでもなく、受け入れて慈しむ事にする。
長期間そうやって葛藤してきたものね。頑張ってきたよ自分。
私以外の誰か、この日記を読んだあなたも、もしかするとそんな風に戦ってきたのかしら?
今までよくやってきたよね。おつかれさま。

私が今こうして日記を書いているという事

今日は昼間ライブに向けての練習に参加し、それが終わってから夕方に家電量販店で洗濯機を購入した。ライブも間近という事でなかなかピリピリとした気分で練習に臨んだ。

話は変わって、タイトルの「私が今こうして日記を書いているという事」について。
これは何のことかというと、私がこうして自宅で日記を書いているということは、外出して用事をこなして帰宅するまでの間、安全だったということなのだ。

例えば、私とすれ違う歩行者や自転車、自動車が安全に自分とすれ違ってくれたからこそ、私は怪我もせず無事に生きている。同様に、今日乗ったバスや電車が安全に運行してくれたからこそ、私は事故に巻き込まれず平穏無事に一日にを終えることができたのだった。

それは当たり前のことだろうか?

言い換えよう。それを当たり前のこととして考えているだろうか?
安全で当然。無事で当然。生きていて当たり前。ほんの少しでも肩がぶつけられたら、それだけで一日の気分が台無しになるのだろうか?肩はぶつかったけども、車道には飛び出さなかったとか、それでも怪我はしなかったとか。そんなふうに考えられないだろうか?
何か一つ歯車が狂って、取り返しのつかない大惨事が発生することが多々ある。
そんな中、私はこうして無事でいる。

さて、改めて考えてみる。

こうして、無事に一日を終えられたことはあたり前のことだろうか?